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SAKATA MASAHIRO
坂田雅弘 Official Website
無益な作業ながら日々新たなる極上の愉しみ "... le plaisir délicieux et toujours d'une occupation inutile"
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読書日記
Reading Diary
日々の読書の中から印象的な記述を抜粋する覚書
2020 年 4 月~ 連載
1月18日 広津和郎『正宗さんの「アーメン」について』
 或医者の話によると、七十歳を越えれば癌年齢を過ぎるというが、八十歳を越えて癌の攻撃を受けた正宗さんは、精神ばかりか肉体も強靭であったといわねばなるまい。
 
 正宗さんが最後に「アーメン」といったことは、人々を驚かした。日頃から冷厳なリアリストと見られていた正宗さんが自分自身のためにいったということは考えられない。
 
 併し後に残して行く夫人のことが心配で堪らず、神の加護を祈らずにいられなくなったとすれば、それは理解できないことではない。自分の最後を想像した場合、その時私の心に残っているものは、結局自分の親しかったほんの僅かな人間ということになるのではないのか。正宗さんの人生が最後に夫人一人に還元されたとしても、それは理解できないものではないと私は思う。


 
1月17日 神崎清『トルストイと徳富蘆花』
 日本のトルストイとよばれることを徳富蘆花は好まなかった。トルストイの模倣者、亜流のたぐいとみられることを、蘆花の自尊心がゆるさなかった。しかしトルストイに対する蘆花の尊敬思慕は年久しく、なみなみならぬものがあった。
 
 蘆花は明治三十九年六月に、したしくトルストイを訪ねた。みわたすかぎりの大農場、リンゴ畑、貴族的なサロン、楓樹の下の食卓、川の沐浴、家族との交際など、トルストイ家の客となった蘆花は、自然ととけあった簡素な生活を喜んでいた。
 
 滞在は五日間におよんだが、蘆花が学びとった最大の教訓は「濫に書くなかれ、言はざるを得ざる事あるるにあらざれば言ふことなかれ」ということばであった。帰国した蘆花は千歳村粕谷に移転した。ここでトルストイの菜食主義、美的百姓の生活にはいった。


 
1月16日 磯山雅『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』2
 よい音楽を書くことはそれ自体神への讃美でもあるとバッハは考えていたにちがいない。
 
 
当時の音楽理論書をひもといてみると、音楽の目的として、神の讃美と、心の慰めがあげられている。これは、宗教音楽が神の讃美で世俗音楽が心の慰めということではない。どちらの音楽も究極においては神を讃えるべきものであり、神の心にかなう音楽によってこそ人は真に心の慰めを得ることができる。
 
 向上心を抱いて真面目に生き、悩んだり苦しんだりしている人のすべてに、バッハの音楽は語りかける。それは、バッハが一つの教義を信奉していたからではなく、人間を超えたものをいさぎよく見つめて、人生を深く生きたからである。バッハの本質を理解する鍵は、信仰の有無や宗派の種類ではなく、その人の人生経験の質であると、私は思う。
 
1月15日 磯山雅『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』1
 私は、享楽主義の風潮に反発する者ではなく、むしろ日々それとともに歩んでいる者だが、過ぎ去りゆく人生の空しさからなるべく目をそらし、目先の欲求を満たしていこうとする生活によっては、精神の飢えは本当には満たされないと痛感する。バッハは、そんなわれわれに、いわば魂の福音を与えてくれる人である。
 
 人生の空しさをバッハはわれわれ以上によく知っているが、だからといって人間に絶望するのではなく、現実を超えてより良いものをめざそうとする人間の可能性への信頼を音楽に盛りこんだ。バッハの音楽を聴くとき、われわれは人間の中にもそうした可能性があることを教えられて幸福になる。あらゆる言論が相対化され、パロディ化コラージュ化を受けていく現代、バッハの音楽ほど力強い肯定を語り、われわれに確信の灯をともすものがあるだろうか。


 
1月14日 安倍能成『岩波茂雄傳』4
 岩波は出版を始めるようになり、漱石に店の看板を書いてもらいたいからとのことで、岩波は漱石山房を訪うた。漱石は即座に快諾して「岩波書店」と大書した。この文字が店の額になり、屋上の看板に金文字でかたどられていたが、額も看板も関東大震災で焼失した。
 
 岩波が漱石のものを出したいと願った時、外からもうるさく頼んで来るので、漱石も一つ自費で出して見ようかという気になったのだが、何しろ駆け出しの書店が当時第一の流行作家のものを出したという、世間への信用の獲得、その後も全集の出版元になる素因を作った。
 
 岩波は『こころ』の出版に感激して、いい材料を使って立派なものを作ろうとしたのを、漱石はその行き過ぎを戒めて、小言をいった。しかし漱石も自費出版に興味を持ったと見え、支那古代の石鼓文の石摺から取った装幀を自分で試みさえもした。
 
1月13日 安倍能成『岩波茂雄傳』3
 岩波は虚偽を厭い、教師をやめて商人になったが、正直では商売はできぬというのが、世間の常識であった。しかし岩波は、正直でやってゆけねば、それを棄てるに未練はないという覚悟で、カントの「汝は為すべきが故に為し能う」を振り廻して、この信念を縷説した。
 
 値の半分以下に値切る掛引だらけの古本屋を、神田の真中で一銭一厘も引かないという正価販売をやった。教員上りの店がと同業者から嘲笑された。果断を要することだが、掛引を厭う性格と妥協を許さない直往を貫徹する耐久力、トラブルに堪え得る強い神経が必要である。
 
 開店当時には店先で毎日客と喧嘩ばかりしておった。岩波の商売のやりかたは、成るたけ高く買って成るたけ安く売るというにあった。そうしてこれを実行した。買入れのこつも知らぬ彼には間違いも多かった。本の価値と市価の区別の講義を客から聞かされたこともあった。
 
1月12日 安倍能成『岩波茂雄傳』2
 神田高等女学校への就職は阿部次郎の紹介である。一つも労を惜しまず、全力を生徒の教育に捧げた。英語のできぬ生徒の為に、始業前に英語を講じてやり、特別講義として論語や聖書を講じ、教師が休むと岩波がその補欠講義をやり、お昼には生徒と一緒に弁当をたべた。岩波は質素な人だと思われていたが、女生徒が弁当を隠して喰うのがよくないのに気づいて、意識的に大きい握飯をふりかざした。
 
 生徒の知識や趣味の啓発の為に、講演につれていったり、大学へ参観に伴ったり、展覧会にひっぱっていったりすることを億劫がらなかった。当時開成中学の教師をしていた田辺元が、或る秋の日の午後文展を見に行き、多くの女生徒を引率して来ている岩波に会って、岩波の一向きな教育者的態度に感心し、研学と教育との二途に彷徨している自分の態度を恥じたことを、深く肝に銘じて忘れなかったといっている。
 
1月11日 安倍能成『岩波茂雄傳』1
 岩波が狂とまでいわれたボートから離れたのは、人生の煩悶、失恋の悩みによって、父の死後彼の理想だった立身出世主義がこわれた外に、理想化していた自治寮と俗世間が別なものでないのに気づいて、一高運動部にも同じ暗影を認めて、運労に幻滅を感じたということもあった。
 
 当時本郷に求道学舎を営んでいた近角常観の勧めに従って、トルストイの『我が懺悔』を読み「消灯後蝋燭の下で読み続けた時の感激は、全く自分のために書かれたものだ」という感じであった。「信仰なきところに人生なし」を発見した時など、躍り上がるほどの喜びだった。
 
 藤村の華厳滝投身に刺激され、「巌頭之感」を読んでは泣いた。岩波自身次の如くに書いている。「これを読んで涕泣したこと幾度であったか。永遠の生命をつかみ人生の根本義に徹するためには死も厭わずという時代であった。藤村の華厳の最後は我々憬れの目標であった。」


 
1月10日 吉田秀和『鎌倉とパリの距離』
 私が鎌倉に引越して来たのは一九七二年。それまでは中目黒に住んでいた。もとは静かな住宅地だったが、だんだん自動車の往来が烈しくなり、眠りが妨げられる。そんなわけで生れ育った東京と脱出することにした。あれこれ考え「鎌倉」という結論になった。
 
 ここには古い寺や神社が少なくない上に海と丘と緑の自然がまだ残っている。鎌倉にはタクシーが少ないので、老人としては、駅から歩いて帰れる範囲でないとだめだと悟った。こうして雪ノ下に住むようになった。
 
 以来、三十年。鎌倉も変わった。車の渋滞もひどくなった。私はよく空想する……北鎌倉から八幡の前に出て二の鳥居の傍の警察署のあたりまで、地下道を掘り、車はそこを走らせる。そうしたら、パリのシャンゼリゼーとまではいかなくとも、海の遥かまで見通せる壮大で優雅な鎌倉大通りが生れるのじゃないか、と。
 
1月9日 吉田秀和『海鳥の唄』
 多くの美しい生活があつた。あるものは、夏の黎明の海に飛ぶ海鳥の如く、爽やかに柔らかく、あるものは十月の光に滿ちた空の如く、透明に而も深く、あるものは、冬、深夜の街に碎ける壺の凍りついた響の如く、純粹に、銳く。
 
 私は今或未來の生活を自分の心に刻みつける。その生活をするものにとつては、生は何ら實現される可く豫定された約束ではない。彼は神をもつてゐないから。彼がもし宗教的と名付けられた感情を有するとすれば、それは罪の贖ひではなく、罪への陶醉である。
 
 彼は死を何らかの解決 ―― 生への決算とは考へない。死こそは再び生へと立ち歸る可き明確な約束である! 諸君は「何故」と質ねるか、彼はかう命ずるであらう。「『如何にしてか』と問へ」と。まだ諸君は見拔かないか。彼の生活こそは深い、生への肯定なのだ。
 
1月8日 吉田秀和『中原中也の目』2
 中原が結婚したと聞き、「何かお祝いをさせてほしいけど」と言ったら、「じゃレコードを買ってくれ。一緒に神田に行って選ぼう」と言う。「これがほしい」彼が言ったのはモーツァルトの三十九番変ホ長調の交響曲。ワインガルトナー指揮のコロムビア盤だった。
 
 三枚組のセットを脇に、彼のアパートに帰って蓄音機にかけた。初々しい奥さんも出て来て、三人で聴いた。中原はとても真面目な目をして聞いていた。その目は優しかった。聴き終わると「酒だ、酒だ、酒にしよう」と言った。音楽には触れなかったが、うれしそうだった。
 
 中原は酔って機嫌が良い時は自作の詩とかヴェルレーヌの詩とかに自流のふしをつけながら朗読した。この時もそうしてくれた。不覚ながら、どんな詩だったか、思い出せない。あの「ベトちゃんかシュバちゃんか」の戯れ歌だったような気もするけれど、保証の限りではない。
 
1月7日 吉田秀和『中原中也の目』1
 私が大学生だったころの話だが、高校時代の先生阿部六郎さんのお宅でバッハの《パッサカリアとフーガ》のレコードを聴いた。阿部先生と詩人中原中也と私で。曲が終わって「すごいなあ」と、思わず私が叫んだ。すると中原が「どう、すごいんだよ」と突っ込んできた。私はどぎまぎしながら「だって神様がいるんだもの」と言った。
 
 中原は恐ろしい人。言葉については厳しい。「お前はクリスチャンか? 宗教というものは親が決めるのが一番だ。大人になってからは自分では決められないよ」と私をにらみつけた。その目の恐ろしかったこと!
 
 後で阿部さんは「あの時、中原は嫉妬してたんだ」と教えてくれた。阿部先生によると、彼は悩みに悩み抜いていて、それが私みたいに気楽に神様なんて口にできる若造に向けてのいら立ちの怒りになった。「あれは相手のいない苦しみなのだ」というわけである。


 
1月6日 大場みな子『正直な人』
 清少納言は無邪気で憎めない人である。思ったことを何でもずばずば言ってのけ、あまりあとさきのことを考えない。紫式部の深慮遠謀に富む賢さにくらべると、幼児めいた愛らしさがある。ばかな女だ、ことさらしたり顔にと、紫式部などは思っている。
 
 清少納言のようなお人好しの素直な人柄とくらべれば、紫式部の理性的で、内面の深さのある落ちつきは近づきがたい怖れを感じさせる。紫女のゆかしさは何か用心せずにはいられない冷めたさでもあって、清女ののびやかさはすがすがしい解放感を読者に与える。
 
 気に入らないものをことごとくやっつけて、自分のことを秀れたものだと自負するさまは、紫式部ならずとも首をふりたくなるが、感覚は絵画的で、色彩感にあふれ、思わずはっとするような描写が多く、やはり並々でない才能だと舌を巻かずにはいられない。


 
1月5日 田中重太郎『枕冊子の魅力』
 枕冊子が平安時代の記録報道文学としてこよなく貴重な作品であることは、何回も説いて来た。単に史実や民族習俗を伝えることだけではない。地名や鳥・虫・植物の名、その他歌枕以外の「見るに異なることなきものの文字に書きてことどとしきもの」に挙げられた。
 
 「覆盆子。鴨跖草。水芡。蜘蛛。胡桃。文章博士。皇后宮権大夫。楊梅。いたどりは まして虎の杖と書きたると。杖なくともありぬべきかほつきを。」にも記録性が読み取られる。枕冊子がなかったら、平安朝の貴族は蚤にも蚊にも刺されなかったと誤解されるかもしれない。
 
 文学作品として残されていなかったら、それらの存在を辞書の類で確認できても、その動的存在乃至姿態は見えないということにもなりかねまじい。「見習ひするもの 欠伸。ちごども。なまけしからぬえせ者」の章段にも現代に生きる、不易の古典性がある。


 
1月4日 清少納言『枕草子』
 念心ゆくもの 説教師は、顔よき。つとまもらへたるこそ、説くことのたふとさもおぼゆれ。ほか目しつれば、忘るるに、にくげなるは、罪や得らむとおぼゆ。このことはとどむべし。すこし年などのよろしきほどこそ、かやうの罪得方の事も書きけめ、今は、いとおそろし。
 
 ありがたきもの 舅にほめらるる婿。姑に思はるる嫁の君。主そしらぬ人の従者。つゆの癖かたはなくて、かたち、心、ありさまもすぐれて、世にあるほど、いささかのきずなき人。同じ所に住む人の、かたみに恥ぢかはしたると思ふが、つひに見えぬこそ、かたけれ。
 
 物よく抜くるしろがねの毛抜き。物語、集など書き写す本に墨つけぬ事。よき草子などは、いみじく心して書けども、かならずこそきたなげになるめれ。男も、女も、法師も、契り深くて語らふ人の、末までなかよき事。使ひよき従者。


 
1月3日 歎異抄3
 念仏は、無碍の一道なり。念仏は、行者のために、非行・非善なり。偏へに、他力にして、自力を離れたる故に。念仏には、無義をもつて義とす。みづからの計ひを挾みて、善悪につきて、往生の助け・障り、二様に思ふは、我が心に往生の業を励みて、申す所の念仏をも自行になすなり。
 
 経釈を読み、学せざる輩、往生不定の由のこと。もろもろの聖教は、本願を信じ、念仏を申さば、仏になる。その外、何の学問かは、往生の要なるべきや。一文不通にして、経釈の行の路も知らざらん人の、称へ易からんための名号におはします故に、易行といふ。
 
 何心もなく、本願に相応して念仏する人をも、学問してこそなんどと言ひ威さるること、仏の怨敵なり。みづから、他力の信心欠くるのみならず、誤つて、他を迷はさんとす。慎んで恐るべし、先師の御心に背くことを。兼ねて哀れむべし、弥陀の本願にあらざることを。
 
1月2日 歎異抄2
 弥陀の本願には、老少・善悪の人を擇ばれず。ただ、信心を要とすと知るべし。その故は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず。念仏に勝るべき善なき故に。悪をも怖るべからず。弥陀の本願を妨ぐる程の悪なき故に。
 
 善人なほもつて往生を遂ぐ。況んや、悪人をや。しかるを、世の人、常に言はく、「悪人なほ往生す。いかに況んや、善人をや」。この条、一旦、その言はれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。その故は、自力作善の人は、偏へに、他力を頼む心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。
 
 煩悩具足のわれらは、いつでの行にても、生死を離るることあるべからざるを憐れみ給ひて、願を起し給ふ本意、悪人成仏のためなれば、他力を頼み奉る悪人、もつとも、往生の正因なり。よつて、善人だにこを往生すれ、まして、悪人はと仰せ候ひき。
 
1月1日 歎異抄1
 竊カニ、愚案ヲ廻ラシテ、粗、古今ヲ考フルニ、先師口傳の眞信ニ異ルコトヲ歎キ、後學相續の疑惑有ランコトヲ思フ。幸ニ、有縁ノ知識ニ依ラズンバ、爭デカ、易行ノ一門ニ入ルコトヲ得シヤ。全ク、自見ノ覺悟ヲ以テ、他力ノ宗旨ヲ亂レルコト莫レ。仍ツテ、故親鸞聖人御物語ノ趣、耳ノ底ニ留ムル所、聊カ、コレヲ注ス。偏ヘニ、同心行者ノ不審ヲ散ゼンガタメナリ。
 
 まことに、一つ、傷ましきことの候ふなり。念仏申すについて、全く、仰せにてなきことをも仰せとのみ申すこと、あさましく歎き存じ候ふなり。悲しきかなや、幸ひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿を取らんことを。一室の行者の中に、信心異なることなからんために、故親鸞の仰せ言候ひし趣、百分が一、片端ばかりをも思ひ出参らせて、泣く泣く筆を染めて、これを記す。名づけて、歎異抄と言ふべし。


 
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